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第34話 許しきれない、でも①

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-14 01:38:21

 キスのあと、部屋の空気はすぐには元へ戻らなかった。

 暖炉の火は変わらず小さくはぜている。

 窓の外の夜も、さっきと同じように深いままだ。

 なのに、ほんの数度唇が触れただけで、世界の静けさの質まで変わってしまったように思える。

 リリアーナは長椅子の端へ腰を下ろしたまま、包帯を巻いた腕をそっと膝の上へ抱えた。傷そのものは浅い。痛みも、さっき薬を塗られた時よりはもう鈍くなっている。けれど胸の奥のほうは、別の意味でひどく落ち着かなかった。

 冷たい口づけではなかった。

 奪うようなものでも、確かめる前に結論だけ押しつけてくるものでもなかった。

 怯えるようで、確かめるようで、こちらが少しでも引けばそれ以上は踏み込まないと分かる口づけ。

 前世にはなかったぬくもり。

 嫌ではなかった。

 むしろ、あの一瞬だけは、自分の中でずっと止まっていた何かが、きしりと軋みながら動き出した気がした。

 だからこそ、怖い。

 それを認めたくなくて、リリアーナは唇をきゅっと結んだ。

 だが、もう遅かった。

 触れられた場所に熱が残っている。

 その熱を「なかったこと」にするには、今の自分
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  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   第34話 許しきれない、でも②

    「……未来、ね」 ぽつりと零す。「そうだ」 「大きく出るのね」 「そうか」 「ええ」 少しだけ可笑しい。  まだ何も保証されていない。  婚約だって断っている。  許したわけでもない。  それなのに、この男は“未来”なんて言葉を口にする。「怖いわよ」 「何が」 「そういう言い方」 「……」 「これから、なんて」 「……」 「前世の私は、そこへ行く前に死んだのに」 その一言で、部屋の空気がまた少し深く沈んだ。  だが、今は前みたいにその沈み方がただの冷たさではない。  そこに、痛みを共有する温度が少しだけある。「……ああ」 セドリックが低く言う。「だからこそ、今世では、止めない」 「……」 「過去だけで終わらせない」 「……」 「君が許せないままでも」 「……」 「それでも、先を作る努力はする」 リリアーナはその言葉を、しばらく胸の中で転がした。 努力。  前世では、その単語さえなかった気がする。  当然だと思い、黙っていた。  役割だけがあり、努力すべき対象としての“二人”は存在しなかった。 今は違う。  許しきれないままでも。  それでも、先を作るために努力する。  その姿勢自体が、もう前世とは違う。「……ねえ」 リリアーナは、暖炉の火を見たまま言った。「私、たぶん」 「何だ」 「あなたを完全に許す日は、すぐには来ないわ」 「そうだろうな」 「もしかしたら、ずっと来ないかもしれない」 「……」 「前の私が失ったものを思うと、そう簡単には」 「分かっている」 「でも」 そこで、ようやくセドリックのほうを見る。「でも、全部を恨みだけで持っていたいとも、もう思っていない」 その言葉が出た瞬間、自分の中で小さく何かが動いた。  たぶんそれが、この章のほんとうの始まりなのだろう。 許しきれない。  でも、恨みだけで未来を埋めたくもない。  そのあいだにある、ひどく不安定で、でも確かに前へ向いている場所。 セドリックの目が、ほんの少しだけやわらぐ。「……ああ」 「何」 「それでいい」 「よくないわよ。中途半端で」 「それでいい」 同じ言葉を、今度はもっと静かに繰り返す。「全部許されるまで、何も始まらないと思っていたら」 「……」 「私は、また君

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     キスのあと、部屋の空気はすぐには元へ戻らなかった。 暖炉の火は変わらず小さくはぜている。  窓の外の夜も、さっきと同じように深いままだ。  なのに、ほんの数度唇が触れただけで、世界の静けさの質まで変わってしまったように思える。 リリアーナは長椅子の端へ腰を下ろしたまま、包帯を巻いた腕をそっと膝の上へ抱えた。傷そのものは浅い。痛みも、さっき薬を塗られた時よりはもう鈍くなっている。けれど胸の奥のほうは、別の意味でひどく落ち着かなかった。 冷たい口づけではなかった。 奪うようなものでも、確かめる前に結論だけ押しつけてくるものでもなかった。  怯えるようで、確かめるようで、こちらが少しでも引けばそれ以上は踏み込まないと分かる口づけ。  前世にはなかったぬくもり。 嫌ではなかった。  むしろ、あの一瞬だけは、自分の中でずっと止まっていた何かが、きしりと軋みながら動き出した気がした。 だからこそ、怖い。 それを認めたくなくて、リリアーナは唇をきゅっと結んだ。  だが、もう遅かった。  触れられた場所に熱が残っている。  その熱を「なかったこと」にするには、今の自分はもう少しだけ正直になりすぎていた。 セドリックは、すぐには部屋を出なかった。 長椅子のすぐ脇ではなく、ほんの一歩分だけ離れた場所に立ち、こちらの呼吸が完全に整うのを待っている。近づきすぎない。だが、離れすぎもしない。そういう距離の取り方が、今の彼らしいと、リリアーナはぼんやり思った。 前世なら、たぶん違った。  触れるなら、それは必要のある時だけ。  そして一度距離を取れば、そのまま何もなかったように離れていく。  今の彼は違う。  近づいたあとに、こちらがその変化へついていけるまで待つ。  それがどれほど厄介な優しさか、本人は分かっているのだろうか。「……ねえ」 沈黙の中で、リリアーナはようやく口を開いた。  自分の声が思ったより掠れていて、少しだけ腹が立つ。「何だ」 セドリックの返事は低い。  だが、さっきよりやわらかい。  いや、やわらかいというより、こちらの言葉を落とさないよう静かに構えている声音だった。「これで」 一度、言葉が詰まる。  喉の奥が熱い。  でも、言わなければいけない。「これで、何かが全部変わったと思わないで」 部屋の

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    「……怖かったか」「……少し」「すまない」「でも」 リリアーナはゆっくりと目を開けた。「嫌じゃ、なかった」「……」「びっくりしただけ」「……そうか」 その声が、ひどく静かにほどけた。 安堵なのだろう。 でも、大きくは出さない。 嬉しいからといって、また前みたいにこちらの気持ちを置いていかない。 そういう配慮が、今の彼にはある。 リリアーナは思わず、指先で彼の袖を少しだけ掴んだ。 無意識だった。 自分で自分に驚く。 だがもう遅い。 掴んでしまった。 セドリックの目が、わずかに動く。「……離れると」「……」「今、少しだけ寒い」 それは、ほとんど自分でも言い訳だと分かっていた。 暖炉の火はついている。 部屋も寒くない。 でも、さっきのぬくもりが消えた直後の空気は、たしかに少しだけ寒かった。 セドリックは何も言わなかった。 代わりに、今度はもっとゆっくりと、もう一度近づく。 次の口づけは、最初よりほんの少しだけ長かった。 それでも、奪うものではない。 確かめるようで。 怯えるようで。 触れたあと、こちらが引けばいつでも止まると分かる口づけ。 だから、リリアーナは今度も逃げなかった。 胸の奥に残っていた前世の白い寝室の冷たさが、そのぬくもりの前で、ほんの少しだけ後ろへ押される。 消えるわけではない。 許したわけでもない。 でも、凍ったまま止まっていた時間の上へ、今、違う温度が落ちてきた。 唇が離れたあと、リリアーナはしばらく目を開けられなかった。 怖い。 でも、痛いだけではない。 苦しい。 でも、前より少しだけ息がしやすい。「……これ」「何だ」「前世には、なかったわね」「……ああ」「全然」「……ああ」 その返答の声が、今まで聞いたことのないくらい静かでやわらかかった。 リリアーナはようやく目を開ける。 セドリックの顔は、すぐ近くにあった。 冷徹侯爵と呼ばれる男の顔。 なのに今は、どこにも冷たさだけではない色がある。「……今さらすぎる」「知っている」「遅い」「……ああ」「でも」「……」「嫌じゃなかったの」 その言葉を、自分でちゃんと口にする。 嬉しいとはまだ言えない。 愛しいとも。 でも、嫌じゃなかった。 それだけで、たぶん今は十分だった。 セ

  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   第33話 冷たい口づけではなく⑤

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  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   第33話 冷たい口づけではなく④

     手当てが終わる。 薄い布を当て、包帯を軽く巻く。 必要以上に大げさにはしない。 その加減もまた、今の彼らしい。「終わった」「ありがとう」「礼を言うな」「どうして」「当然のことだ」「前は当然じゃなかったわ」「……」 その一言で、彼の手がほんの一瞬だけ止まる。 すぐに動きは戻るが、そのわずかな止まりに、前世の空白が全部含まれていた気がした。「……そうだな」 低い声が落ちる。「前は、当然にできなかった」「ええ」「今は、そうしたい」 その言葉が終わる頃には、部屋はまた静かだった。 暖炉の火。 外の風。 そして、少しずつほどけていく緊張。 リリアーナは、包帯の巻かれた腕を膝へ戻し、ゆっくりと目を閉じた。 怖かった。 今もまだ少し怖い。 でも、隣にいるこの男へ対して抱くものは、恐怖だけではもう足りない。「……ねえ」 閉じた目のまま言う。「今日、あなたが馬車の扉を開けた時」「……」「前世にはなかった顔をしていた」「どんな」「今にも壊れそうな顔」「……」 返事はすぐに来なかった。 たぶん、自覚があるのだろう。「前は、間に合わなかったから」「……」「今日は、間に合っても、また失うかもしれないと思った」「……」「だから、あんな顔をした」 セドリックはそこまで言ってから、一度だけ息を吐いた。「みっともないな」「少しだけ」「少しだけか」「少しだけよ」 ほんの少しだけ、口元が緩む。 笑うつもりではない。 でも、そういう言葉の往復が今の二人にはできる。 そのこと自体が、もう以前とは違った。 リリアーナは目を開けた。 近い。 椅子ではなく、長椅子のすぐ脇へ膝を折ったせいで、セドリックの顔がひどく近い位置にある。灯りはやわらかく、暖炉の赤が頬の線を少しだけ温かく見せていた。整った顔だ。だが、今夜の彼は整っているだけではない。疲れと、恐れと、まだ引ききらない緊張が、薄くその表面に残っている。 ああ、この人も怖かったのだと、今さらながら思う。 その時、セドリックの指先が、頬のすぐ脇で止まった。 触れる直前で、止まる。 そのためらいが、あまりにも今の彼らしかった。「……触れてもいいか」 低い声。 それは命令でも、既に決まった行為への確認でもない。 ちゃんと問いだった。 今の自分へ

  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません    第1話 もうあなたの花嫁にはなりません⑤

     部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ

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    焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本

  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません    第1話 もうあなたの花嫁にはなりません①

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  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   登場人物

    リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分

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